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『転校生』(てんこうせい)は、1982年(昭和57年)に公開された日本映画。山中恒の児童文学『おれがあいつであいつがおれで』の最初の映画化作品〔#読本、68-71頁〕。公開時の併映は『オン・ザ・ロード』〔『転校生』の方が添え物だったが、3週目に順位が逆転した(大林宣彦の映画談議大全《転校生》読本、562頁)。〕。2007年(平成19年)に、リメイク版が公開された。ロケを行った土地にちなみ、1982年版を「尾道転校生」、2007年版を「長野転校生」と呼び分ける向きもある。 == 概要 == この映画が製作された当時、監督をつとめた大林宣彦はCMディレクターから映画に進出して5年目、すでに5本の劇場映画を監督してヒット作も多かったものの、映像の遊びが多い作風は評論家受けが芳しくなく、名声が十分に確立されていたとはいえなかった〔大林の古里 熱い後押し<中>転校生 : 地域 : 読売新聞 、郷土の風景に新作意欲 <番外編> : 地域 : 読売新聞 大林宣彦さんインタビュー 〕〔#読本、580-589頁〕。また、主演の尾美としのり・小林聡美もほとんど無名の俳優であり、さらに、「男と女の身体が入れ替わる」という内容が、当初は出資を決めていたサンリオの当時の社長が「破廉恥。わが社の社風に合わない」という社長判断を下し〔#読本、96-108、604-605頁〕〔『宝島』1986年9月号(宝島社)P115〕撮影開始の二週間前に出資が中止されるなど〔#読本、47-49、351-352頁、 寄稿大林宣彦さん..1 《転校生》が生み出したもの 〕制作費の調達は極めて厳しい状況だった〔〔、大林宣彦監督「転校生」はいかにして生まれたか1 - nifty 〕〔第1回 - 東京国際映画祭 森岡道夫さんロングインタビュー 第1回 〕。前2作で大林がタッグを組んでいた角川春樹にも打診したが、原作本が角川書店ではなく旺文社から出ていたことで断念した。大林は「一時期はクランクアップが危ぶまれるところまで追い込まれた」と述べている〔大林の著書『日日世は好日 巻の2』に詳しい。〕。尾美としのりも小林聡美も、1か月以上もリハーサルを続けて、映画の仕上がりも見えていた段階だった〔。大林が大森一樹のレイ・ブラッドベリ作品のプロデュースをしようと、打ち合わせで新宿でATG代表の佐々木史朗に会った際、大森が「大林さんの映画が潰れかけています!」と佐々木に救済を頼み、渡された台本を読んだ佐々木から「こういう映画を観たいから、ぼくが何とかする」との回答を得て製作に漕ぎ着けた〔〔〔#読本、446-448頁〕。ATGは佐々木体制になって製作する映画の傾向が変わった〔#ワールド31頁〕。「大森の"レイ・ブラッドベリ"が『転校生』に移行し、大森の"レイ・ブラッドベリ"は実現しなかったが、後述する理由で多少の借りは返したかも知れない」と大林は述べている(詳細は後述)〔。 佐々木が当時映画製作を始めようとしていた日本テレビに話を持ち込み、1981年9月に入って映画の完成後、日本テレビ作品となった〔〔〔#読本、50-52、351-352頁、寄稿 映画作家、大林宣彦さん..2《転校生》が生み出したもの - nifty 〕。『転校生』はゴールデンウィークに4年連続で放映され高視聴率を挙げたので「お返しは出来た」と思うと大林は話している〔。大林はこの他、「尾道の中田貞雄商工会議所会頭(当時)の個人的な資金援助の協力があった」と話している〔。 公開後、地味だが極めて良質の映画という評価がなされ、参加スタッフ・出演俳優の代表作になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「転校生 (映画)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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